散手対打・推手

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散手対打・推手科
陳炎林の「散手対打」は、動作の絵図があり、教本として覚えることが容易であり、88式として長い連環でひとまとまりになってるので、この散手対打を完全に習得します。

楊式太極拳に伝わる「散手対打」は、陳炎林の「散手対打」の数十倍もある内容ですが、この散手対打で基本を練り上げたあとに、本格的な散手対打を修得していきます。

陳炎林の「散手対打」について
 この、陳炎林の「散手対打」は、第二次世界大戦が終わる2年前の1943年に上海で発行された「太極拳刀剣桿散手合編」として上下二冊の正本として販売されていたものである。右の広告にあるように、数冊の単行文に分けても発行されていた。

 

陳炎林は、上海租界など日本やヨーロッパの国々が自治に入り込み、その後日本がほとんど支配する上海の激動の時代に、地産という不動産業を上海の一等地で営む人間である。この陳炎林についてはほとんど現在の太極拳業界の関係人物とする資料は残っていないのは、言うなれば裏社会の黒幕でもあるから表に出ないのは当然である上、自分の太極拳の本質と違うと思われる太極拳の集団と付き合うことはしなかった。従って、今普及している一般的な太極拳には名が一切出てこない。

日本でも、当時、利権が膨大な市街地の不動産を取り仕切るものは、裏社会の実力者である。日本でも武器の使用は限定されたため、徒手による格闘術か、懲役を覚悟で真剣を帯びるものが台頭していた。真剣を使うと懲役に行くことになる確率が高いので、やはり日本でも徒手殺戮術の長けたものがその時代の裏社会を制していった。祖父の組織の長も、その道の猛者である。ましてや、激動の上海である。この時代を乗り越えるばかりか、上海で不動産を取り仕切るものとしては名を残した人物としては、相当な猛者である。

1842年からイギリスとアメリカ合衆国、フランスがそれぞれ租界を設定し、後に英米列強と日本の租界を纏めた共同租界があり、1853年9月に起きた秘密結社・小刀会の武装蜂起などがあったため、上海での武器の使用はタブーになっていた。そこで、必要なものが「徒手殺戮術」であり、陳炎林は幼少から実践的な戦闘技術を学び、楊健候や少候の一番弟子であった田兆麟から秘密裏に実戦的な太極拳を師事し、上海の裏社会をその殺戮術を駆使してのし上がったのである。陳炎林は相当な使い手であり、晩年になっても毎日練習を怠らなかったそうである。田兆麟から秘密裏に教わった太極拳は、田兆麟さえ封印したほど、当時の中国政府に知られれば抹消の対象となるものであった。しかし、裏社会に生きる陳炎林は、孤高にてその太極拳を一人と身近な側近と共に修練し抜き、人生に生かし、自分しか残せない本質を、中国政府や西洋諸国に葬られないように加工して、太極拳の本質が分かるものにしか分からない内容を散りばめて「太極拳刀剣桿散手合編」を出版した。私の太極拳の師は、1939年~1945年の第二次世界大戦の終了後、40才を超えて、中国の武当山から日本の祖父周辺の組織をたよって逃げてきた人物だが、これらの話は、私の太極拳の師王師が祖父から聞いたというの話の一部である。

(以下は、中生勝美(大阪市立大学大学院文学研究科) の論文「戦中期における上海の不動産取引と都市問題―満鉄報告書を中心に―」から抜粋)

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上海が都市として発展したのは、1842 年の南京条約に始まる。これはアヘン戦争でイギリスと清国が 交戦し、イギリスの遠征隊は南京まで迫り、揚子江を占領した。そこで江南地方から北京へ物資を運ぶ 運河が封鎖され、中国側が和平を懇願せざるを得なくなったことにより締結された条約である。これに よって、広東・厦門・福州・寧波・上海が外国貿易のために開放され、これらの都市を条約港(treaty Port) と呼んだ。つまり、上海という都市は、イギリスが租界を設定したことに始まる。それまで現在の上海 がある地域は、単に揚子江河口の寒村にすぎなかった。上海の歴史は、外国の租界が清朝政府の権力が 及ばない治外法権として設置され、イギリス・フランス・共同租界が、それぞれに母国の都市建設をもちこんだ。上海は、ヨーロッパの植民地となった他のアジアの諸都市と共通する特色を持っている。ただ、 香港は、一部がイギリスの割譲地で、大半が 1898 年の新界条約が 99 年の期間を限った租借地であった ので、中華人民共和国成立後も返還さなかったが、上海の租界地は、中華人民共和国建国に後、異なっ た歴史を歩むが、戦前は揚子江流域から世界貿易の中継点として、香港よりもはるかに繁栄した都市で あった。

上海に都市が形成される過程で、租界が果たした役割、なかんずく不動産がもたらした金融市場の形成が何よりも重要性を持った。

1930 年代の上海は、不動産市場が成立し、不動産の商品化が都市開発の 資金調達として重要な意味を持っていた。

1932 年に傀儡国家「満州国」が建国して、大規模な 地籍調査が実施された。この翌年に、上海の不動産取引に関する百貨辞書とされる、陳炎林編『上海地産大全』総数 926 ページもの大著が発行された。1937 年7月7日に 始まった盧溝橋事変は、8 月 13 日上海へ飛び火し、上海全体を戦闘に巻き込んだ。その年の暮れに、租 界以外の上海は日本軍に占領され、租界の範囲は著しく縮小した。そして、英米の企業が所有する財産を接収することになり、上海の外国権益の実態を掌握する必要が あった。太平洋戦争が始まると、日本軍は租界へ進駐し、1942 年 1 月に青年男女の英米人は憲兵隊に登録して民文証明書を受け取ることを要請され、 2 月に憲兵隊は国際スパイ機関の手入れを宣布して多くの英米人を逮捕し、11 月に「敵性国人」の財産凍結が宣告され、43 年 2 月に英米人の成人男性を強制収容所に拘禁した。そして日本軍は英米の企業を接収し、軍需工場は軍の直接管理に、その他は興亜院華中連絡部の管理下においた。※土方定一・橋本八男訳『上海史』東京:生活社、1941年(初版1940年)、14-15ページ。

日本軍の経済封鎖と物資統制政策で、上海を初めとする華中地域に深刻な生産萎縮と生活破綻をもた らした。また、中国人同士の不動産取引には、日本人の調査員が見証人となった。

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この翌年である1943年に「太極拳刀剣桿散手合編」が発行されたのである。

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